目指せ四段(14)見せるそば打ち

2011年01月17日 18:55

 段位認定の試験は、茹で・盛り付けまでの全工程を見るのでななく、切りの段階までです。
 従って、本当に美味いそばが出来たのかどうかはわかりません。
 製品の完成度は切りまでの工程でほとんど分かる、という考え方によるのだと思いますが、合否はそこまでの各段階における技術の良否で判定されます。
 しかし、実際は、純粋に技術の良否だけ判定されるのではなく、見た目の良し悪しという部分が入ってきます。

 つまり、服装などが不衛生であったり乱れていたり、極端に落ち着きがなかったり、動きが雑だったり、道具の扱いが乱暴だったりしていると評価が下がります。

 最終的に美味しければ良いはずですが、それだけではダメでして、それに取り組む姿勢が求められているということです。この考えを突き詰めていくと(前にも書きました)「蕎麦道」ということになるのかもしれませんが、私は、そこまで行かなくとも、動作の美しさというのはあっても良いかなぁと、最近思うようになりました。

 本来、我々は美味しい蕎麦を追求するのですから、そこに動作の美しさを求めるのは邪道です。
 しかし、「用の美」とか「機能美」とかいう言葉があるように、外形的な美しさとその本質的なものとの間には強い関係がありますから、まったく邪道ともいえないのではないか、と思うわけです。

 外見的な動作の美しさを追求するものの一つに「茶道」があります。(本来は、動作がどうこう言うのは修行の途中の段階であるに過ぎず、内面的なことの追求が本旨であろうと思いますが、その辺のことはとりあえず措きます。)

 私は、蕎麦打ち(の作業)は「茶道」に似ているのではないかと思います。
 ある約束事の中で、無心に体と道具をさばき、お茶をたて、客をもてなす、というところがまず良く似ていますね。
 細かいところでは、茶筅(ちゃせん)で茶碗の中をかき回すのは水回し、袱紗(ふくさ)をさばく様子は切った麺の束をさばく様子に似ています(ちょっと当て付け気味ですが‥)。その他、道具の取り扱いも似た点があるように思えます。

 動きが洗練された無駄のないものになっていくと、それがおのずと美しい、ということではないかと思うのですが、それをそば打ちで体現するというのも一興かな、という感じを持っているわけです。
 ちょっとおかしいですかねぇ。


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