我々世代の責任

2010年03月10日 23:00

 道場でのまとまった稽古は、概ね週に1回です。
 毎週1回、気のおけないメンバーが集まり、切磋琢磨しつつ蕎麦を打ち、打った蕎麦を食べ、その前に(これが一番かもしれませんが)ちょっと一杯やる訳です。
 勿論、黙って飲むわけではありませんで、蕎麦の話を中心に、その時々の柔らかい話から堅い話まで、あっちに飛んだりこっちに飛んだりの話題を楽しむのですね。これがまた、面白いのです。

 私は、そういう話題の一つとして、時節に応じた歴史上の話題を提供しようと考え、ある時期から、そういう話題作りをしております。
 我々のような蕎麦打ちは、単に蕎麦を打つこと自体を楽しみにするというのではなく、伝統を守り受け継ぐという側面もあるわけですから、歴史に関心を持つということは、あながち無関係なことではありません。また、標題に掲げました「我々世代の責任」という観点からもこういう知識をベースにしてなんらかのアクションに繋げることも必要ではないかと思ったからです。(お孫さん等身近な方を教育するのもその一つ。)

 勿論、蕎麦を打つことそのものを楽しむという姿勢を貫くことも結構ですし、それを否定するものでは絶対にありません。ただ、老境に足を踏み入れつつある我々の立場を考えれば、それだけでいいのだろうかという思いが若干するのです。特に、今の異常な世の中を見れば、年長者の責任として、なにかをしなければならないような気がします。我々を、ここまで育て、十分ではないにしろ一定の福利を与えれくれているこの国のために、色々な形で大小を問わず、何がしかの手を差し伸べるということがあっても良いと思う訳です。

 さて、その世情についてですが、非常に大変な状況になりつつあります。
 舵取りをする政府が極めて危なっかしいのです。
 私は、今のこの政府の大きな欠点は「国家観」がない、ということだと思います。
 弱肉強食のこの国際社会の中で、政府に「国家」を思う気持ちが無いことということは、他国による蚕食を許すということに他なりません。
 では、そういう心情がどこから来ているかというと、単純化して言えば「日本は悪い国で、他国(特に中国、韓国、朝鮮)に謝罪をしなければならない」という、いわゆる自虐的歴史観が根底にあることによります。つまり、極論すれば「日本の過去の歴史は唾棄すべきものであるから、日本が解体してもしようのないことだ。」という考え方に繋がっていく訳です。(それ以前の問題として「国家」についての関心が極めて希薄である、というのが実情に近いかもしれません。)
 しかし、(細部は別の機会にしますが)日本の歴史を丁寧に見れば、史実はその全く反対といっても良いほどです。
 そういう史実を、私達は、知らなければならない。まず、それが第一歩です。

 今日は、3月10日。あの東京大空襲の日でした。
 一夜(実際は深夜の数時間)にして10万人近く無辜の民間人が殺されてしまいました。
 これらの方々はまぎれもなく私たちの同胞です。終戦まで続く地方都市への爆撃で亡くなった方々のことも含めると、親類縁者がいる、という方も多いでしょう。加えて、この行為は、明白な国際法違反です。
 つまり、私たちの親戚筋に当たるかもしれない多くの同胞が不法に殺されているのです。
 私達はもっと怒らなければなりません。怒らなくとも、その事実だけはしっかりと認識しておかなければならないと思います。
 ところが、私たち日本人は、基本的にお人よしで気が優しいものですから、国際法に反するこの虐殺行為をも、あたかも自然厄災であるかのような捉え方をしています。「被災者」とか「罹災」という言葉使いにそのことが現れています。(原爆では被爆などという言葉使いになっています。)
 こういう考え方は、弱肉強食の国際社会では阿呆呼ばわりされるだけで、私達の不利益を深めるだけのものでしかありません。(表立って阿呆呼ばわりはされませんが、そういう見方で扱われる、ということです。)
 私たちは、同胞が不法に殺されたという正当な怒りをしっかりと認識し、必要時にそれを示さなければならないのです。
 このことが、その都度その都度、きちんとなされないから、国民の精神が(某首相なども含め)、ぐだぐだになってしまうのです。国民の精神が劣化すれば国としてもそういう国家となるのは必然でして、そうなると我が国は諸外国から見て絶好のカモになってしまいます(現にそうなっている)。こうして、国民全体の不幸になっていくのです。

 そうは言っても、こういうジャンルの話は、えてして硬くて、政治的になるものですから、こういう話を好まない方もあるかもしれませんが、幅広い話題のなかの一つとして捉えて貰いたいものです。

 私の大好きな作家・漫画家で粋人であった杉浦日向子さんは次のように言っています。(「ソバ屋で憩う(新潮文庫)」から)
「二百年前、世界一の百万都市だった江戸の街には「連」と呼ばれる市民サークルが、泰平の華と咲き乱れた。「連」は、利害関係のない同好の士によって構成されたリベラルな集まりで、職業身分年齢性別の全てを超えて成り立つ。それは、釣り、囲碁将棋、歌舞音曲、素人芝居、盆栽、俳諧、陶芸、書画など、多種多様な道楽を、個人で楽しむための装置として機能した。」

 つまり、「連」という、身分や利害の垣根を越えた自由な世界が、あの身分制度のあった江戸時代に、形作られていた、ということです。大人の知恵です。

 杉浦さんの記述には「蕎麦の連」はありませんが、その精神に照らせば、私が通う稽古の会はまさにこの自由の精神に満ち満ちた「連」にほかなりません。

 ということで、今後も、色々な話題を幅広く語り合いたいと思います。
 あわせて、この混沌の世のなか、世代としての責任も意識しなければならないのではないか、と思っています。


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